桜の花が少しずつ散って
葉っぱの緑色が増えてきました。
木々は蕾ができて花が咲いて葉っぱになっていく、
でも草花は葉が出てからお花が咲くから、
逆だよね。
そう考えると面白い。
昨日は近所の仲間たちと夜中まで飲んだあと、
今年初のちょっとしたお花見をした。
近くの公園で夜桜を見上げながら、
安心できる友人と素敵な空間で本音で話ができる、
そんな至福に浸っていました。
昨日の仲間との話の中で長い時間テーマになったのが、
お金の概念、お金への囚われについて。
お金を得るために、家族を養うために、働いているという実態と
本当は好きなことだけしていたいという想いと。
家族を幸せにしたいという想いと
その想いがあるから家族を養うために働くという愛と。
好きなことだけして稼ぎたいという願望と
それだけじゃ生きていけないという不安と。
きっと誰もが一度は深く考えるテーマだと思う。
人生について考えるとき、
そこにはこの社会の仕組み、価値基準として採用されている
「お金」の概念が必ず絡んでくる。
今朝そのことについて再度考えてみようと思ったんだけれど、
「お金」のことを念頭に置いてしまうと
奥から出てくる願望を制限したり、
純粋な想いがかき消されてしまったりするので、
お金の概念を一旦脇においてみた。
そしたら、
先週AFPの研修中に
トレーナーのアムリタさんが言っていた言葉を思い出した。
「したい」「できる」「すべき」が重なるところが「使命」
妙にしっくりきて、
私の中で物凄く響いている。
やりたいことというのは比較的簡単に思いつく。
でも
「できるかできないか」
「すべきかすべきでないか」
という視点を完全に排除したりするのも、どうも違う。
私にはできない、私には無理と言って諦めるのも違う。
「すべき」は頭で考えていることだから「すべきではない」というのも違う。
例えば、私のやりたいことの一つに
安心安全を感じられる場を作ること、
各自がやりたいことができる楽しい場の提供をしたいというのがある。
私自身が安心安全の場にいつもいたいという想いがあるから
やりたいことであり、
見知らぬ不便な土地でそんなことできるだろうか?と不安になることもあるけれど、
不可能なことではないし、きっとできるという思いもある。
そして今そういう安心を感じる場を持てない人がいるということが
ある種の社会問題を作り出しているとも感じているので
すべきことだとも思っている。
でも、
それをやるためにどのくらいお金が必要なのか、
事前に資金を貯めたりどう費用を捻出しようかという考えを先に入れてしまうと
全てがストップしてしまう。
なので、先に自分の奥深くにある想いを
きちんと具体的にしておく必要があるんだと思う。
そして
今まで自分の中に蓄積してきた過去の経験則やパターンを
どんな風に外していけるか、
そこに大きなヒントがある気がします。
お金がないとできないことって
もしかしたら、そんなにないかもよ?
お金がなくてもできることって
意外とたくさんあるかもよ?
自分の枠に気付き、枠を取り外すためには、
その枠を越えさせてくれるような体験が必要になってきます。
自分の持っている枠には自分ではなかなか気付かないので、
枠を気づかせてくれるような出来事が必要になってきます。
それを気づかせてくれる一つにAFPがあります。
嫌なことって自分からやろうとは思わないけれど、
ワークの中でやらないといけないことはコミットして結局やることになる。
やりたくない!と思っても
やってみた後で体感として気付きを得られると
その枠は瞬間的に取っ払われることになる。
それの繰り返し。
でもこれって、
人生そのものなんだろうと思う。
今まで嫌なこともたくさん経験してきたし、
やりたくないこともたくさんやってきた。
でもそれをやったからこそ、
自分の中に体感が残っていて、
枠をどんどん広げてこれた気がする。
お金の概念については、
まだまだ議論の余地があるので、
これからも仲間や家族やクライアントさんとも
話をしたり聞いたいしていきたいなと思います
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