朝起きて窓の外を見ながら
肩を前に後ろにぐるぐる回してみる。
ベリーダンスの動きで私がなかなかできない動き。
腕は動かさずに!(これが難しい)、
左右の肩一方だけを
後ろから前に動かす。
普段、右肩だけとか、左肩だけとか、
体の部位の一部だけを動かす機会があまりないから
難しく感じるけれど、
部位の一つ一つに意識を向けて動かすのを続けてみると
その部位が発する声が聞こえてくる感じがある。
これはちょっと新しい発見がありそうなので、
練習がてら続けてみよう
日々の出来事が
今勉強していることや受けているプログラムとリンクすると
私の中の小さな私がとても喜ぶ。
そんなことが続いている。
シンクロニシティは
これからどんどん増えていく時代になるのかな。。。
私が初めてインドに行ったのは
確か20代前半。
インドのデリーから入って、
電車にゴトンゴトンと長時間揺られ、
バラナシまで行ってその辺りをブラブラ旅していた。
バラナシでは
ガンジス川の目の前にある1泊100円ほどの安宿に泊まっていた。
窓の外を見ると
目の前すぐ川なので、
風景や人々の様子が観察できて面白い。
実際には窓からではなく、
朝日が昇る前には外に出て行って
川の前でぼーっとして過ごした。
その辺で瞑想しているサドゥーが話しかけてきたり、
彼らにとっては珍しかった使い捨てカメラを使わせてあげたり、
楽しそうに遊んでいる子供達に混じって沐浴したり、
小さい子供が売りにくるチャイを飲んだり、
インド人の生活の中に少しだけ溶け込んでみた。
現地の人の生活に少しでも入ることが、
私の旅の第一目的だったので、
インドという国での時間は特に有意義だった。
インドにはまた行ってみたいと思う。
そこに滞在したのはほんの何日かだったけれど、
私の中の「生と死」の価値観をガラッと変える日々になった。
ガンジス川には
インド人の生活の全てがそこにあった。
そして
「生と死」が同時にそこにはあった。
ガンジス川のほとりで
人間がそのまま普通に焼かれたり、
川の真ん中に投げられたりしているのをみて
死とは自然なものなんだなと感じ、
自分の内側に衝撃が走ったのを思い出す。
先日行った藤原新也さんの展示会。
藤原さんがたくさんの国々を旅した写真がたくさんある中で、
インドの写真を見ていると
あの時感じた衝撃を思い出し、懐かしさを感じた。
川のほとりの炎をよく見てみると、
そこに人間の足が見えていたりする。
人間がそのまま死に絶えているところに犬がやってきて
食べられる。
川に投げられた人の骨が水面に浮かんでいて
そこにカラスが止まっている。
骨が川のほとりに残っている。
そんな写真たちを見ていると、
やっぱり「生きること」について考えてしまう。
「どう死にたいか」は「どう生きたいか」に繋がる。
メメント・モリ(死を想え)。
自分の死を想った時、
呼吸のことを想った。
もっと呼吸に繋がりたい、
自分の本来の呼吸を感じたい、
その呼吸と共に発せられる音を出したい、
そんなことを想った。
藤原新也さんの言葉は
いつも深く深く考えさせてくれる。
インドの人々が
ガンジス川の前に写っている写真に添えられていたこの言葉。
何だか現代人に訴えかけているようで、
こちらに引用しておきたいと思う。
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死というものは、
なしくずしにヒトに訪れるものではなく、
死が訪れたその最期のときのいつかの瞬間を
ヒトは決断し、選び取るのです。
だから、生きているあいだに、
あなたが死ぬ時のための決断力を養っておきなさい。
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自分自身の判断と責任で自ら決める力、
それが決断力。
自分で決める。
この人生は自分のもの、
だから自分で決める。
自分で全てが決められる。
怠ける人生にするのも
頑張る人生にするのも
楽しい人生にするのも
全部自分で決められる。
死を想うことは、生を感じること。
ど真ん中を生きたい。
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